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月刊 花みずき

商店街の現状と課題
 
 ・円滑化法の廃止後は

 ・S電気店・店主の話
 


ワンポイント
印紙税の軽減措置拡充と
非課税範囲拡大

月刊 経営一番

中高生52万人を蝕む
「スマホ亡国論」

・学校に行けない重症患者

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・どこからが依存か
・技術と追いかけっこ
・東アジアは“依存先進国”

編集後記
 〜時泥棒〜



業績31の原理


 

〜平成維新への期待〜

 
台湾元総統の李登輝先生に謁見し、ご講演を拝聴することができた。
  今、日本には平成維新が必要。これがなければどうにもならない。明治維新があり今日がある、国を愛することに維新の基本がある。日本人は歴史を知らない。坂本龍馬の新国家体制の基本方針である「船中八策」など。そのためには、民衆の思い、民衆の力の結集が不足しているようだ。と叱咤激励を受けた。
 また、日本と台湾との関係はどうあるべきかの基本方針として、「心と心の絆を築きあげること」とおっしゃって、それには、日台関係における過去の偉人などを知ることが大事だと強調された。約9年前に三田祭で講演することになっていたが、ビザの発給がなく講演は中止となったが、ここで台湾にとっては神様のような偉人である、石川県出身の八田與一氏の功績を知ってもらい、日本人精神の素晴らしさを伝えたかったようだ。

 この編集後記では、台湾で入手した記事から引用し、八田與一氏の功績を紹介する。次号で李登輝先生が強調した日本人精神を掲載したい。

「台湾で偉人となった日本人 八田與一の功績を振り返る」
 台南にメモリアルパークがオープン、日本統治時代に現在の台南市宮田区に当時、東洋一といわれた烏山頭ダムを設計し、水利・土木技師として活躍した八田與一(1886〜1942年)という人がいる。日本人にはあまり知られていないが、台湾では偉人として中学生向け歴史教科書にも取り上げられている存在だ。馬英九総統も八田の功績を認め、その故居を同ダム近くに復元して記念園区(メモリアルパーク)建設を指示。このほど完工したのを受けて、そのオープニングセレモニーが八田の命日である5月8日、現地で行われた。馬総統ら台湾政府首脳をはじめ、日本から遺族、森喜朗・元首相ら国会議員30人近くが出席するなど盛大に催されたという。メモリアルパークの紹介とともに、八田與一の偉業と逸話を紹介する。


<自らダム建設計画を提案>
 八田與一については、台湾に来た当初、烏山頭ダムを設計した土木技師という程度の認識しかなかった。日本人で八田を知る人は、土木関係者か台湾通ぐらい。それに比べ、台湾では歴史教科書にも掲載されていて、地元では毎年、八田の命日に慰霊追悼式が開かれているという特別な存在なのである。八田は1886年、金沢市生まれ。東京帝国大学工学部土木科を卒業後、24歳で台湾総督府内務局土木科の技手として就職した。

  当初は衛生事業に従事したが、発電・灌漑事業の部門に移った。28歳で当時着工中だったと桃園大シュウの水利工事を任され、これを見事に成功させた。31歳で金沢の開業医で後に県議なども務めた米村吉太郎の長女である外代樹(当時16歳)と結婚した。

  大正7(1918)年、八田は嘉南平野の調査を行った。この地域は15万ヘクタールほどあるが、灌漑設備が不十分だったため、田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。干し上った土地には伝染病が蔓延するなど、農民には劣悪な環境で生活も困窮していたのである。そこで八田は官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を提案。総督府で工事を決定して、国会に予算を提出して通過した。大正9(1920)年から昭和5(1930)年まで、完成に至るまで工事を指揮した。


<安心して働くため宿舎や関連施設を造る>
 烏山頭ダム工事は、大工事で困難も伴い時間もかかる。このため八田は「安心して働けるためには、家族が一緒でなければならない」と主張して、家族も住める宿舎と関連施設を建設した。宿舎は独立棟、2棟続き、4棟続き、8棟続きの4種類で、合計68棟。234世帯が入居可能だった。工事が始まると、家族を含め2,000人にもなる一つの街ができた。宿舎のほか、共同浴場、商店やテニスコート、広場、さらに学校も造った。八田は建設現場では、人間関係が大事であるとして、よく作業員の宿舎に上がりこんで、花札に興じていたという。

  粘土、砂、礫、栗石、玉石を組み合わせるという、当時、世界最新のセミ・ハイドロリックフィル工法を日本で初めて採用した。建設されたのは、貯水量1億5,000万トンの烏山頭ダム建設とともに、嘉南平野一帯に細かく張り巡らされた「嘉南大しゅう」と呼ばれた水利設備1万6,000キロ。これは約2,700キロの万里の長城以上の長さで、史上最大の土木工事だった。予算は総額4,200万円で、当時の台湾総督府の年間予算の3分の1以上の規模。日本政府の政府援助が不可欠だった。このため1,200万円を国庫補助し、残り3,000万円を地元農民など関係者が負担した。

<数々の人柄しのばせるエピソード>

 工事が開始されて3年目(大正12年)には関東大震災が起こり、烏山頭ダム工事への補助金が大きく削られ、作業員の半数を解雇せざるを得なくなった。そこで八田は解雇者の再就職先を探すため、総督府や縁故者を頼って奔走した。工事が再開されれば、優先して再雇用するという条件を付けたという。
 その前の1922(大正11)年12月には、トンネル工事でガス爆発事故が発生した。日本人、台湾人合わせて50余人の死者が出た。八田は工事が終わりに近づいた1930(昭和5)年3月、工事のために亡くなった人々とその遺族ら134人の名前を刻んだ「殉工碑」を建てた。その際、日本人、台湾人の分け隔てなく年齢順に名前を刻んだという。いずれも八田の人柄をしのばせるエピソードである。

  同年4月にはダムは完成した。サトウキビすら育たなかったといわれる嘉南平野は、烏山頭ダムと嘉南大しゅうができて、台湾最大の穀倉地に変わったのである。
 
その後、八田は家族とともに台北に戻り、技師として最高の官位を与えられた。その後、自ら現地人技術者の民間学校を台北市内につくった。1942(昭和17)年、八田は南方派遣要員としてダム建設適地を調査するため、貨客船でフィリピンに向かう。しかし同年5月8日、貨客船は五島列島沖を航海中、米軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没し、八田は亡くなった。56歳だった。その後、遺体は操縦中だった山口県の漁船によって、偶然網にかかり引き上げられた。1945(昭和20)年、台北でも空襲がひどくなると、妻の外代樹は子供とともに烏山頭ダムの職員宿舎に疎開。敗戦後の9月1日未明、ダムの放水口に身を投げた。享年45歳。夫の後を追ったのである。

<地元農民が毎年命日に慰霊追悼式>
 烏山頭ダム近くに、八田夫妻の墓と、八田の銅像がある。墓は1946年(昭和21)年12月、農民たちが日本の黒御影石を探し出して建てた。以後、毎年命日に慰霊追悼式が開かれている。銅像は1931(昭和6)年、工事関係者が贈ったものだが、戦争末期、金属供出を警戒した地元民が隠して保管。戦後も蒋介石政権が続いたため、銅像はそのまま保存されて、1981(昭和56)年になるまで墓前におかれることはなかった。
  
 
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