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月刊 花みずき

商店街の現状と課題
 
 ・円滑化法の廃止後は

 ・S電気店・店主の話
 


ワンポイント
印紙税の軽減措置拡充と
非課税範囲拡大

月刊 経営一番

中高生52万人を蝕む
「スマホ亡国論」

・学校に行けない重症患者

・取り上げると大暴れ
・どこからが依存か
・技術と追いかけっこ
・東アジアは“依存先進国”

編集後記
 〜時泥棒〜



業績31の原理

 経営一番 NO.219  2013年5月
〜「自分の行く末」くらい決めさせなさい!〜

 「死=いざその時」がいつ来るのかは、まさに「神のみぞ知る」で誰にもわからない。元気なうちは「まだ先のこと」と思うものだが、むしろ元気で頭がはっきりしているうちに、自分の行く末をハッキリと示しておくべきだ。

◆「さっさと逝かせて」

 「いいかげんに死にたいと思っても生きられる。しかも、政府のお金で(終末期医療を)やってもらうのは、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしないと」
 社会保障制度改革国民会議における麻生副総理の発言が、「失言」とクローズアップされた。しかし私は、麻生氏のこの「個人的な人生観」には全く同感。後期高齢者の身としては、「いざとなったらさっさと逝かせてほしい」というのが本音だ。一方、「延命治療をして、体中、管だらけになるのはかわいそうだ」と思ってはいても、家族はなかなか「治療をやめる」判断を下す覚悟を持ちきれない。
 夫が末期がんで入院中、私は医師から「人工呼吸器をつけますか」と聞かれるに至り、即座に「つけないでください」と答えた。治る見込みがない人にただ呼吸をさせ続けるのは、本人にとっても家族にとっても、つらいことだから。
 以前から、子供たちにも「いざ」という時のことを話してある。「世話が大変になったら、施設にでも入れてほしい。そのためのお金は残しているから。延命治療もいらない。治療の余地がなくなったら、自然に逝かせてほしい」と。
 
いざその時…たとえば認知症などになっていたら、施設行きを嫌がり、延命治療を「やってくれ」と言い出さないとも限らない。正常な判断のできるうちに下した判断を、子供たちには実行してもらいたいのである。

◆「死」にナーバスな日本人

 1月20日、NHKで「終の棲家はどこに 漂流社会」が放送された。妻に先立たれた88歳の男性が体調を崩し、自宅で生活できなくなり、病院も施設も空きがなく、短期入所できる施設を転々とする模様を追っていた。その後、民間で引き受けてくれるところが見つかるが1ヶ月当たり14万円もの費用がかかる。年金は6万円。足りない分は生活保護で埋めていた。
 入所の際、ケアマネージャーの女性が男性に「いざという時、延命治療を望みますか」と聞いた。私は「もう88歳で、生活保護で充当しながら生活しているくらいだから当然、断るだろう」と思っていたところ、その男性は「延命治療をしてください」と返答。私は愕然とした。
 生活保護受給者は医療費がかからない。ということは、生活費の補てんの他、医療費まで国に「おんぶにだっこ」の状態。自分の生活が何によって支えられ、成り立っているのかを考えたこともないのか、あるいはもう考えられる状況ではないのか。番組ではそこまで深く追求しなかったため、本当のところはわからないが、男性は何を思って延命治療を希望したのか。

 しっかり意思表示できる時期を過ぎてしまった人間が延命治療をするか否かの状況に差し掛かった時、その人の命をどう考えるのか。専門家によるチームが判断し、「ただ生きている」という状況が続くだけなのであれば、治療を辞めるなどという制度を設けてもいいのではないかと思うが、脳死も法整備までに長い時間がかかったから、一朝一夕にはできないだろう。
 それほど、日本人は「死」に対してナーバスになっているとも言える。
社会保障改革が政治の俎上に上がり、年金支給額の引き上げや医療費の自己負担額の増加が取りざたされるたびに、高齢者は「死ねと言うのか」などと反対してきた。国の補助を受ける権利は当然持っているが、それに対してはあくまでも謙虚でなければならない。相手が「死ね」と言えないとわかっていながら「死ねというのか」と開き直るのは、あまりにも傲慢だろう。
 
これだけ少子高齢化の社会になったのだから、権利だけを主張してはいけない。権利を行使することに謙虚にならなければ、早晩、日本の社会保障制度は潰れる。自分のことだけでなく、国家全体のことも考えるべきだ。

◆“漂流”“無縁”の背景は

 もう一つ考えなければならないのは、「なぜ漂流するに至ったのか」「どうして生活保護に頼らざるを得ないのか」という問題の背景だ。3年前にやはりNHKに取り上げられ、社会問題化した「無縁社会」も、身寄りのない独居老人の孤独死を問題として投げかけ、75歳の老人男性を取材していた。番組ではこの男性を「気の毒な人」「無縁社会を象徴するケース」として紹介しているため、「個別の事情」には深く立ち入らない。ただただ「気の毒な老人がいて、このような老人は今後も増えるだろう」と放送される。しかし、「無縁社会」が問題と思うならば、この男性のケースを今後に生かすために必要なのは「なぜ彼がこんな境遇に陥ってしまったのか」という背景を見せることだ。

 「無縁社会」と言うが、縁は自分で作るもの。ただ孤独だ、孤独老人だ、かわいそうだ。問題だと表面的なことだけ言っても、何の解決にもならない。これから続く人たちがそうならないためにはどうすべきかを考え、現状を未来への教材とすることが大事なのである。
 日本人の命に対する考え方がセンチメンタルでウエットだから、本質よりも表面的で感傷的なものが報じられるが、「言いづらいこと」を言う人間も世の中には必要だ。「社会保障制度を守るために、平均寿命よりも長く生きた人間には延命治療は要らないのでは」「死ぬ時のことを考え、書き残しておくべきでは」「生活保護を受ける権利はあるけれど、どうすればそれに頼らない人生を送れるか考えたほうがいい」…こう言うと「冷酷だ」という人もいるが、嫌われても言わなければならないことはある。そして、後期高齢者をはじめとする日本人全体が、このことを真剣に考えなければならない時期に来ている。老後の境遇には「不運」もあるかもしれないが、多くの部分はそれまでに自分が送ってきた人生の結実だ。自分が選んできた人生の終着点がたとえ「無縁」「漂流」であったからといって、ことさら騒ぎ立てることではない。
 社会から降りるときがきたら、そうするまでのこと。静かに受け止めると同時に、自分のことは自分で考える「覚悟」を持つ以外にない。

(ニュース出所 WiLL 4月号)
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