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月刊 花みずき

商店街の現状と課題
 
 ・円滑化法の廃止後は

 ・S電気店・店主の話
 


ワンポイント
印紙税の軽減措置拡充と
非課税範囲拡大

月刊 経営一番

中高生52万人を蝕む
「スマホ亡国論」

・学校に行けない重症患者

・取り上げると大暴れ
・どこからが依存か
・技術と追いかけっこ
・東アジアは“依存先進国”

編集後記
 〜時泥棒〜



業績31の原理

 経営一番 NO.225  2013年11月
〜人生は理不尽の連続だ!腐らずにチャンスを待て!〜

 とかくこの世はままならぬもの、である。だからと言って、自分の不運や失敗を周囲のせいにして拗ねたり腐ったりしていたら、状況は悪くなる一方である。どうしたらいいのか。それは軽重に関係なく、目の前の仕事に専念し、手を抜くことなくやり続けること、それだけである。

◆後の社長山下が働きぶりを見ていた

 その好例として紹介するのは、松下電器産業(現パナソニック)で副社長を務めたのち、債務超過に陥っていたWOWOWの再建社長として乗り込み、見事立て直しに成功した佐久間f二氏のケースだ。
 佐久間氏は昭和31(1956)年に大学を卒業して松下電器に入社。入社時の松下の年商は220億円、まだ関西の中堅企業に過ぎなかった。ちなみに、トップの日立の年商は474億円で、松下は第4位だった。

 最初の試練は、入社6年で配属された本社企画室時代に訪れる。
 企画室は、創業者の松下幸之助氏(当時、会長)や正治氏(同社長)、高橋荒太郎氏(同副社長)の3人で構成される経営会議(通称、三役会)に報告するなど重要な部署で、いわばエリートが集められていた。
 まだ20代の佐久間氏も三役会で報告した経験を持つ。その佐久間氏が労働組合の役員に立候補し、副委員長になったものだから、本社では大騒ぎになった。というのも、戦後しばらくは、松下電器の労組執行部も共産党系だったからだ。むろん、佐久間氏に党派色はなく、長時間労働が続いていた職場環境を変えたという正義感から頼まれて立候補したという経緯があった。

  1年後、会社寄りの第二組合が組合選挙で共産党系を破って執行部を握る。その後に佐久間氏たちを待っていたのは「左遷」人事だった。佐久間氏は、ドイツのハンブルグ松下電器への出向を命じられる。初めての海外勤務だった。
 
佐久間氏自身は「左遷人事だとは思っていない」と説明するが、当時週刊誌などでは左遷人事と騒がれ、同期と比べて出世が5〜6年遅れたのは事実である。

◆サラリーマンに理不尽は付き物

 欧州市場は当時、オランダの多国籍企業・フィリップスという巨人がいて、圧倒的なブランド力を誇っていた。高品質の製品と強固な販売網で他社を圧倒。その市場でフィリップスと同じ値段で電池を販売し、販路を開拓しろというのだ。誰が見ても、無茶なミッションであった。
 松下電器では、将来の幹部候補生を研修などでオランダのフィリップス本社に派遣していた。その彼らが休憩を兼ねて立ち寄ったのがハンブルグ松下である。のちに社長に就任する山下俊彦氏も、その一人だった。その山下氏が、当時の佐久間氏をこう評している。
 「海外に出されると、日本と違いますから色々不満や不平を口にするものです。ところが、佐久間君だけは、黙々と仕事をしていました。それが強い印象として残りました」
 
その後、山下氏は帰国した佐久間氏を取締役に選任するとともに、経営企画室を設置し責任者に抜擢。佐久間氏は松下で初めて戦略的な中期経営計画となる「アクション61」(3ヶ年計画)のシナリオライターとして、今でいうIT化の促進に手腕を発揮し、松下電器では遅れていた半導体投資やデジタル化、コンピュータ化が進められることになった。

◆元経団連会長の奥田氏も飛ばされた過去があった

 トヨタ自動車の社長、会長を歴任し、経団連の会長を8年務めた奥田硯氏もまた、不本意な左遷に腐ることはなかったひとりである。
 一橋大学を卒業後、奥田氏は工販合併前のトヨタ自動車販売(現、トヨタ自動車)に入社。それから17年後の経営部時代、上司と衝突しフィリピンのマニラに飛ばされる。
 その当時、フィリピンにはトヨタ車の独占的販売権を持つ大物ディーラーが溜めた巨額な延滞金の回収と言う問題があった。それまで誰もなしえなかった任務だったが、奥田氏は与えられた肩書きが「経理アドバイザー」に過ぎなかったにもかかわらず、トヨタが持つ政界人脈を駆使して回収に成功する。

 奥田氏は、こうした誰もが無理だと思う難しい仕事を諦めることなく地道にこなしていった。そうした奥田氏の仕事ぶりを最初に評価したのが、創業家出身の豊田章一郎氏(当時、社長)である。当時マニラには娘夫婦が住んでおり、豊田氏は孫の顔見たさに訪れていたが、その際のアテンド役が奥田氏だった。
 
奥田氏の才能を見抜いた豊田氏は、本社人事部の判断を疑問に思い、本社に呼び出す。79年に帰国、2年後に取締役就任、北米進出の用地選定など重要な仕事を任されるようになる。87年には常務、88年専務、92年副社長、そして95年代表取締役社長に上り詰める。

◆自分が変わらなければ周りが変わる!

 最後に「変わらないこと」も、逆境に負けない必須条件であると伝えたい。
 アップルの創業者、スティーブ・ジョブズは、自分が作った会社を追われ、戻るまでの十年余りの間、“まったく変わらなかった”。
 では何が変わったのか。周囲が変わったのだ。アップルが追放したジョブズを受け入れたのだ。

 ジョブズはアップルを去った後も、新しく会社を立ち上げ、理想のコンピュータ(PC)を求めてアップル時代同様に、とことんこだわった開発を続けた。他方、アップルは自力での次期OSの開発に行き詰まり、ジョブズのOSに強い期待を寄せることになる。アップルを去って12年後の97年、アップルはジョブズの会社を買収し、ジョブズは復帰した。
 もしアップルを去った後、コンピュータ以外の分野に関心を寄せたり、傲岸不遜と批判された強引な手法を改めたり、信念を変えていたら、今のアップルは存在しなかっただろう。
 人生には失敗や挫折はつきものである。肝要なことは、その時に腐らないことである。
 (ニュース出所 宝島9月号)

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